出会い


我が家から駅へ向かうまでの商店街内にパン屋がある。
パン屋なのに開店が午前10:00というなかなか攻める姿勢のお店だ。

 

気温が暖かくなり始めていたこの日もぼくは駅へと急いでいた。
家を出る時間が予定より少し遅れた事もあり、早歩きだ。
イヤホンを耳に挿し曲を流す。最近は宇多田ヒカルの新アルバムをヘビロテである。

その男は開店前のそのパン屋の入り口に座り込んでいた。
年は40代か。ニット帽にヨレヨレのコートを着てギターを抱えて
「春のうららのすみだ川〜♪」
と歌っていた。
童謡『花』である。

 

「弾き語りで童謡て逆に新しいのかもなぁ」と感じながらも、当然足を止めて耳を傾ける余裕は無い。現代人は忙しいのだ。

 


始まりはいつも突然に


その男を横目に駅へ向かおうとしたその瞬間である。
男は歌う事をやめた。
そして視線をぼくへと真っ直ぐに向けてきた。
いや、そんな生易しいものではない。
所謂 “ガン見” だ。
なんでも鑑定団の鑑定士でさえもあんな眼力は持ちえていないだろう。
そのうえぼくに向かって何か喋りかけている。

 

ぼくは男の言葉を聞くためイヤフォンを外し、問うた。
「なんですか?」

男は答える。
「お兄ちゃん! 何か聞きたい曲ない?リクエスト!」

 

ぼくが今一番聴きたい曲は、おまえが話しかけてくる直前まで聴いていた宇多田だ。
おまえは焼肉食べた人間に「ねぇ、焼肉食べたい?」と質問するのか。

しかし怒ってはいけない。怒りは運気を下げると誰かが言っていた。
ヒーヒーフーと、怒りを下げる効果は特に持ち合わせていないラマーズ法の呼吸で気分を落ち着かせる。

 

目当ての電車までもう時間の余裕はない。
しかしここでスルーすると、このおじさんがあまりにも不憫ではないか。

ぼくは
「あ、じゃあ『花』を…」
とリクエストした。

ついさっきまで彼が歌っていた曲である。
一番聴きたいのは宇多田だが、彼が宇多田を知っている可能性は決して高くないだろう。
よしんば知っていたとしても彼の歌う『First Love』では、最後のキスはタバコと別のなんらかのフレイバーがしそうである。

 

ぼくのリクエストに対し、彼はこう答えた。

「…は、花…?」

 

何それ? と言わんばかりのニュアンスだ。
まぁ仕方ない。
歌は知っていても題名は知らないというのは童謡あるあるだ。

「ほら、あの、すみだ川の。」

おじさんはついに表情を崩して
「あーはいはい! わかった任せて!」
とギターを構えて歌い始める。

「あなたは もう 忘れたかしら」と南こうせつの『神田川』を口ずさむ。
見事な川違いである。
しかも上手い。
それだけの歌唱力を持ちながらなぜ童謡で甘んじていた? もっと自分に自信を持てよ!

 

彼は1番を丸々歌い終わった後、満足気な顔でぼくを見上げた。

ぼくは微笑みおじさんと見つめ合いながら、頭の中では遅刻の言い訳を考え始めていた。


当日劇場にお越しいただいたお客様と2人で行なう即興芝居
『why me?』vol.2まで
あと17日!!

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